浄心寺の桜

第6回 最期の言葉の意味するもの(下)

つかの間の安心

 私は、末期ガンによるあまりの痛さから「死なせてくれ」「殺してくれ」と訴えている池田さん(仮名)に、仏さまに苦しみを除いてくれるよう願い、お迎えをいただくことでお浄土に新しいいのちをいただけるように願う、念仏を唱えることを勧めました。

 すると、池田さんは「死なせてくれ」「殺してくれ」と叫ぶかわり、「ナムアミダブツ」と念仏を見事なほどに唱え続けるようになったのです。私が病室にいたわずかな時間に襲ってきた苦痛に対して、念仏を唱え続ける池田さんに、私はほっと安心して病室を後にしました。その後、数日の間、離れた場所であっても池田さんの苦痛が緩和されますようにと念じつつ、寺で過ごしました。

 病室を訪問してから一週間後、私と池田さんとの縁を結んでくれたホスピスのボランティア・コーディネーターから電話がかかってきました。池田さんの訃報です。「池田さんは最期まで苦しみに見舞われながらも念仏を唱え、仏さまの世界に救われることを望みつつ、息を引き取られた」と、その最期の様子を丁寧に報告してくれました。

雲のイラスト

 浄土宗は、阿弥陀仏の名前を唱えること(念仏)で、仏さまのお迎えをいただき、極楽浄土に生まれていくことを究極の目的とします。臨終の間際に念仏を唱えるということは、もっとも灘重される旅立ちであることから、私は大きな安らぎを感じ、池田さんの面影をしのび、お祈り申し上げました。

 私の「心のケア・ボランティア」としての活動は、宗教の内容を伝道することではありません。しかし、浄土宗の僧侶として苦痛にさいなまれた中で、浄土に生まれることを願って念仏に導けたと、私は誇りにも感じていました。

思いがけぬ言葉

 しかし、次のやりとりで、思いがけない言葉を聞くことになったのです。

 病室で出会った方々が亡くなられた場合、滅多に葬儀に参列したり、お参りすることはありません。なぜなら葬儀は、その家の菩提寺の住職が、お勤めをする場合が多いからです。いわば、同業者としての配慮からです。しかし、池田さんは私がお勤めした念仏を唱えて亡くなられたのです。たとえ他の僧侶が葬儀を執行していたとしても、お焼香のひとつもさせていただきたいという情が生じた私は、その旨をボランティア・コーディネーターに伝えました。

 すると彼は、次のように答えたのです。「池田さんの奥さんは、旦那さんが最期を迎えるにあたって、『宗教家がかかわってくれたことは、とてもよかったと思います。しかし、、問題の解決にはならなかったと思います。しばらくはお会いしたくない』と申されています」と。

 私は、思わず次の言葉を失いました。そして、念仏を伝えられたという充実感など吹っ飛び、何ともむなしい脱力感に見舞われました。

はすの華のイラスト

看取る者の救い

 奥さんの語られた「問題の解決にならなかった」という言葉は、念仏という宗数的に意味のある言葉が、どれほど尊い言葉であろうが、彼女にとって「痛いよ」「殺してほしい」「死にたいよ」といった苦痛と同類の叫びとしか受け止められなかったから出たものなのでしょう。恐らくこの奥さんには、これまで出合うことのなかった念仏を唱えることが、なにやら怪しげな奇行としか感じられなかったのかもしれません。

 なのに、私は念仏を伝えられたことで、すっかり調子に乗って浮かれていました。宗教家として恥じ入るばかりです。

 このときの虚無感を、同じ宗派の僧侶に語ると「君は最も大切なことを伝え、仏さまとご縁を結んで差し上げたのだから、それでいいんだよ」と言葉が返ってきました。私にはこれらの言葉は何の慰めにもなりませんでした。一体、宗数的な教いとは、誰のためにあるのでしょう。死を間近にした人のためであることは言うまでもありません。その意味で念仏は、池田さんにとっての救いになったと確信しています。しかし、一人の人間のいのちは、当事者だけではなく、看取る者や、複数の人々が互いにかかわり合うことで確かめられるものです。池田さんの最愛の奥さんにとって、救いとならないのでは、念仏の功徳が達せられたとはいえません。

 私には、池田さんの奥さんがいつかどこかで念仏のほんとうの意味に出合っていただける日を、願うしか術がないのです。

家族と語り合う大切さ

 人は皆、旅立ちのときを迎えなければなりません。旅立つのは当事者ですが、家族や犬切な人が送ってくれてこそ、死は確かめられるのではないでしょうか。どうぞ、これから向かう世界は、どのような世界なのか、どのような言葉を遺して逝こうというのか、家族で語り合っていただきたいと思うのです。それは互いのいのちを大切にすることに他ならないのです。

 心に痛みを感じるとき、我慢しなくていいのです。どうぞ「痛いよ」と口に出してください。そして、その心の痛みが何からきているのかを、わかる範囲で構いませんから言葉で表現してみてください。言わなければ伝わらないこともあるのですから。

佼成 2009年(平成21年)6月号掲載

→7月号 「無になる」って本当ですか

佐藤雅彦(さとうまさひこ)
1958年東京生まれ。浄土宗浄心寺(東京・文京区)住職、大正大学非常勤講師
現在、宗教家として生命倫理の問題に取り組むほか、死を間近にした人の訪問
小・中学校で「いのちの授業」を行っている
共著に『いのちに寄り添う道』(一橋出版)など
イラスト:すみもとななみ
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