人生の命題
「私たちは何のために生きるのでしょうか」。日常の生活で、こういった疑問と向き合ったことのある人は少なくないはずです。この人生の命題に明確な答えをもって生きている人もおそらく少ないものでしょう。
多くの人びとは「それを探し求めるために生きている」という模範解答にうなずかされるものです。しかし、よく考えてみると「自分の生きる意味を探し求めるために生きる」という人は、これからの人生にまだ時間的な余裕があるから悠長なことを言っていられるのではないでしょうか。死を間近にして、その命題に出合い、心に痛みを感じている人もいるのです。
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満たされない思い
田中一郎さん(仮名)と出会ったのは、入院する都内の総合病院でした。田中さんは64歳。都内の学生街で小さなラーメン屋を営み、奥さんと独立した2人の子どもがいました。
すでにガンは進行し、自宅に帰ることはできても、家業に復帰することはできないだろうことを本人も自覚されていました。
私が「心のケア・ボランティア」としてかかわることになったのは、彼がため息まじりに発した「おれの人生は何だったのだろう」という言葉を看護師が心の痛みとして受け止め、お坊さんに会ってみますかと、尋ねたことが始まりでした。
田中さんの恰幅のいい体型、ふくよかな顔の輪郭からは、あまり末期のガンを患っていることなど感じさせませんでした。
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ひととおりのあいさつを終えたあと、田中さんはこれまで一生懸命慟いてきたこと、ラーメン屋を開業するまでの中華料理店での修業のこと、わき目も振らず汗水して子どもたちを育ててきたことなどをポツポツと語ってくれました。さらに、人生の結果として今は、何かむなしい気がすること、具体的に言い表すことができないが、何か満たされない思いがあることを打ち明け、それがどうしてなのか、死を前にしてこんな気持ちになってしまった自分の生きてきた意味は何だったのかと、私に質問を向けてきました。
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人生の締めくくりになって生じた「生きる意味」への問いは、田中さんの場合、自分の人生の意味がただの徒労で、「くたびれもうけ」に終わっただけのものだったと、人生そのものが否定的に感じられているかのようでした。
私は田中さんの話を聞きながら、どんな話が今の田中さんの心に染み込んでいくか考えました。末期ガンの患者さんは今日の出会いを逃したら、次回があると限りません。この一期一会に何かを感じてもらえなければ、田中さんはむなしさを抱いたまま旅立っていくことになるかもしれないのです。 |
かけがえのない「いのち」
私は、お釈迦さまの誕生伝説を話すことにしました。お釈迦さまは摩耶夫人(まやぶにん)を母として生まれ、すぐに七歩歩いて「天上天下 唯我独尊 (てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」と述べられたという伝説です。もちろん生まれたばかりの赤ん坊が歩くわけも、しゃべるわけもありません。後世に作られた伝説です。
この伝説は、お釈迦さまの誕生が、重要なメッセージをもっているからこそ、作られ伝えられてきたのです。そのメッセージとは「この世の中に私は、ただ1人、いのちをいただいた、かけがえのない存在だ」という教えです。
このことを田中さんの人生になぞらえてお話ししました。
「田中さんの生涯を振り返ると、ご両親のため、奥さんや子どもたちのため、いつも身を粉にして働いてきて、自分の悦楽を求めるというような時間は、寸分としてないものでした。自分のいのちをこのような病気になって静かに見つめる時間を得たことで『やりたいこと』『してみたかったこと』に手もつけられず生き抜いてきたことに、満たされない思いやむなしさを感じているのではないでしょうか。 |
一方で懸命に働いたことで、家族を養うという人生の大きな目的を成し遂げたはずです。誰もみな、人生のすべてがむなしく満たされないなどということはなく、田中さんも家族のために働くことで、家族の笑顔を何よりの幸せな宝物と感じて生きた時間があったのではないでしょうか。 |
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田中さんのご両親、奥さんや子どもたちはみな、それぞれの人生であなたとご縁をいただき、共に過ごした時間を宝物として生きたはずですし、子どもや孫は、これからもあなたとのいのちの結びつきを礎として生きていくことでしょう。
人の一生に、思いのすべてを達成できる人は極めてわずかです。田中さんは、他の人には代わることのできない 『かけがえのないいのち』を充分に成し遂げられたのではないでしょうか。『むなしさ』や『満たされない』思いは、人間が生きる上で掌(てのひら)の表裏のように必ず付きまとう『人間としての苦しみ』だと思うのです」
こんなふうにお話ししたと思います。
「和尚さん、私の人生は、幸せな人生だったのですね」と、田中さんは静かにささやき、私たちは手を握り合いました。 |
佼成 2009年(平成21年)3月号掲載 |
→4月号 病と出会うご縁 |